PR誌「機」

2005年12月号

後藤新平と徳富蘇峰の交遊 高野静子

板垣退助と二人の青年
 「花も嵐も踏み越えて、行くは男の生きる道」という歌を聞くと、私の脳裏には後藤新平が浮んでくる。
 明治十五(1882)年四月六日、自由党総理板垣退助が岐阜において刺客に刺され、「板垣死すとも、自由は死せず」と叫んだという話はよく知られている。負傷した板垣を手当したのが、県立愛知病院長の後藤新平であった。当時県外に出るには役人の許可が必要であったが、後藤は進退を賭けて駆けつけた。そのとき板垣は、二十五歳の後藤を「彼は毛色の変わった人物である。彼をして政治家たらしめざるを惜しむ」とまわりの人に言ったという。後にその予言は当たった。
 これより四年後の明治十九(1886)年の夏、出来たばかりの『将来之日本』の原稿を携え、新島襄の添え状を持って高知の板垣退助を訪ねたのが、二十三歳の蘇峰であった。蘇峰の出世作ともなった『将来之日本』を、最初に見せたかったのが板垣退助であったという。しかし板垣はその原稿よりも、蘇峰という青年に興味を示し、「頻りに、予に向つてその同志たるべく促された」(『蘇峰自伝』中央公論社、昭和十年)という状況であった。板垣が後藤と蘇峰に明治十五年と十九年にそれぞれ出会い、政治の世界に欲しいと感じたことは面白い。
 時に明治十九年、板垣四十九歳、後藤二十九歳、蘇峰二十三歳であった。

書簡の人格
 神奈川県二宮町にある徳富蘇峰記念館には、徳富蘇峰に宛てた四万六千通余の書簡が所蔵されている。差出人数でいうと約一万二千人にわたる。蘇峰が如何に書簡を大切に思っていたかは、蘇峰の著書『近世日本国民史』全百巻が、多くの書簡を駆使して歴史を、そして人物を描いていることからも窺える。蘇峰自身「ある意味に於いて、書簡はその人の自伝なり。特に第三者に披露する作為なくして、只だ有りのままに書きながしたる書簡は、其人の最も信憑すべき自伝なり」(『蘇翁言志録』明治書院、昭和十一年)と語っているように、書簡には人の生きてきた重み、人格がある。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、大東亜戦争、戦後の時代を、人々は何を考えて何を目標に生きて来たのか。有名、無名の人を問わず、蘇峰宛の書簡は生きていて面白い。

書簡から見える二人の交遊
 大正九(1920)年十二月、後藤は東京市会にて市長に選挙され、十二月十六日市長就任を受諾した。そこで後藤は永田秀次郎、池田宏、前田多門という三人の実力ある助役を決定した。永田秀次郎は内務官僚で、政治家で、青嵐という俳号を持った俳人でもあった。俳句、短歌、漢詩を作ることが、当時の教養ある人士の心情を伝える手段としてよくつかわれていた。伊藤博文の宮内大臣秘書官森泰二郎は漢詩人森槐南であったことを知り驚かされた。森槐南は漢詩人森春涛の息子であり、漢詩人野口寧斎の師であり、森 外、中江兆民、幸田露伴などと漢詩を作り、寄り集まり楽しんでいたこともあった。明治三十六(1903)年創刊された野口寧斎主幹の漢詩の雑誌『百花欄』への投稿を見ると、地方からも愛読者を得ていたことがわかる。伊藤博文、山県有朋、乃木希典、田中光顕などの政治家も寧斎に漢詩の添削を求めていた。


蘇峰書簡 大正十(1921)年一月八日
 新年御芽出度奉祝候 本年ハ市政刷新 別して御多用と拝察仕候 迂生碌々只今恰秀吉朝鮮役起稿中ニて 大晦日も元日もナク 兀々従事自顧一咲仕候 本年ハ戦地調査ノ為め朝鮮邊彷徨仕度存候 乾坤俯仰謾忘機 万巻著書一布衣 莫杷前賢較長短 未知五十九年非 本年ハ馬齢五十九ニ相成候間 負惜ノ為め上記口占候 御叱正奉仰候
  大正十 一月八匆々 不乙
  棲霞大人 閣下       猪一郎
  一蔵サンノ御夫人ハ極まり候哉 如何

 蘇峰は数え年五十九歳の時、『近世日本国民史』の秀吉の朝鮮役を起稿中で、大晦日も元日もなく、執筆していた様子がわかる。「本年は市政刷新」で忙しくなるであろうと期待していた蘇峰は、後藤の力量をよほど買っていたのであろう。後藤からの返書が一月十日である。


後藤書簡 大正十年一月十日
 新禧愛出度奉祝候。旧臘来著書に御いそがわしく元旦もなしとの中御直書を辱し、老生の光栄不過之候。本年は朝鮮御漫遊之御企図大賛成に候。小生明後日より紅塵十丈の都門に入り、仙境に遊びし功を消尽し去るべし。御一笑可賜候。是御宿業の致す処か。此に瑤韻よろしく御叱正を乞ひ候。
  知命而来不語機 胸羅星宿笑披衣
  等身著就耳将順 没却人間百是非
 五十九歳羨敷候。況んや耳順を過る老生に於ておや。
 語中の閑戯今夜に尽くべし。呵々。
  一月十日新平
  蘇峯大人侍曹
 追啓 御令閨様へもよろしく。豚児縁談之件貴意に掛られ不斜奉感謝候。まだ決定不致、いそぎ結定致、千万配慮中に御坐候。以上

 大正七年和子夫人が亡くなり、長男一蔵の縁談はまだ決まっていないようである。
 「小生明後日より紅塵十丈の都門に入り、仙境に遊びし功を消尽し去るべし。御一笑可賜候。是御宿業の致す処か。此に瑶韻よろしく御叱正を乞ひ候」と漢詩の叱正を乞うている。蘇峰の五十九歳を羨ましいと書いているが、後藤は蘇峰より六歳年長である。追伸には「豚児縁談之件貴意に掛られ不斜奉感謝候。千万配慮中に御座候」と父親らしい心境が感じられる。後藤の長男一蔵は、この年の三月五日、杉浦春子と結婚した。長女の愛子は大正元(1912)年、鶴見祐輔と結婚した。現在活躍しておられる社会学者・鶴見和子氏と哲学者・鶴見俊輔氏は、祐輔、愛子夫妻の長女、長男である。蘇峰は四男、六女の子沢山であった。明治三十九(1906)年生まれの六女の矢野鶴子さんは現在、東京青山で九十九歳でお元気にお過ごしである。後藤新平を二、三回お見受けしたことがあること、後藤の長女愛子と蘇峰の二女孝子は学習院で同級生であったことをお話し下さった。
 家庭的な話題も出てくるような後藤と蘇峰の交遊であった。

(こうの・しずこ/徳富蘇峰記念館学芸員)
※全文は『往復書簡 後藤新平―徳富蘇峰 1895-1929』に収録(構成・編集部)

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